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雑記

受験の記憶

2005/03/19


どうやら、1〜3アマの通信術の試験が簡単になるらしい。1アマは既に和文がなくなって久しい。また痩身術ラタ送信術もいつのまにかなくなっている。だんだん試験は簡単に、という世の中の流れだろうか。もっとも、試験に合格したからといって、すぐ実用になる技能か、とは言えないことは、昔の、今より難しかった試験を通っていてもよく分かっている。おそらく、他のどんな分野でも似たり寄ったりであろう。そのあたりをつつくのはまたの機会にして、ちょっと記憶が抹消されないうちに、私が受けた試験の様子を書いておこう。まぁ何かの役に立つというようなものではないが。


(「その2、第2級アマチュア無線技士受験 1968年4月期」へのリンク)
(「その3、第1級アマチュア無線技士受験 1968年10月期」へのリンク)



その1 電信級アマチュア無線技士受験 1967年 10月期


JA7YAFの仲間(何人いたんだろう、6,7人か?)と一緒に、早朝、というよりは深夜に近いかな、そういった時間に盛岡を出発して仙台に繰り出した。当時は、試験は4月期と10月期の年二回しか実施されていない。その前に、このこともここで書いておこう。「電信級アマチュア無線技士」は、当時は電信しか出来なかった。従って、多くの受験者は、「電話級アマチュア無線技士」の試験と同時に受験した。電話級の資格を取ってから、次に電信級、という者も多くいたに違いない。その逆は非常に少なかったと思われる。というのは、もし電信級だけを先に取り、電信だけでアマチュア無線を始めた者は、そのまま電信だけに没頭し、電話級の必要性を感じないからだ・・・とは私の主観が大いに入っているので多少割り引いて読み取って欲しい。hi。いま3アマ、4アマとなって、操作できるモードもそれぞれに増え、増えた分の試験レベルが上がっているのかどうかは分からないが、時代と共に新しい技術も試験分野に入ってきてはいるのだろう。

いずれにしても、当時の数字で、(記憶だけだから概算印象だが)全受験者の10%くらいが電信級の受験者、2アマが2%くらいか、1アマは1%いたかどうか、といった感じだったろう。


話が横道にそれたが、早朝に仙台に到着した我々は、試験会場の八木山にある電波高専に向かった。まっすぐ行ったか時間調整したか、記憶が欠落している。どこかで時間調整するか朝飯食べたか、そういったことはやっているだろう。当時のまじめな(!)高校1年生が早朝からうろうろ出来るところなんて限られている。hi


ああしかし、記憶というものは非常に曖昧で、前述のごとく電信級と電話級、両方を一緒に受験したのだが、午前中に4科目、すなわち電信級・電話級それぞれの電法規と無線工学済ませたのだったか、午後まで少し食い込んだか、欠落している。だいたいは学科が先で、午後に電信級の通信術試験が合ったと思う。

学科試験の会場の雰囲気は、おそらく今もあまり変わらないのではないだろうか。大部屋に、長机+長いす、その両端に受験者が座りカンニング困難な状態で受験する・・・。人数によっては長いすに3人掛けになるかも知れないが。

大部屋で大人数の受験風景は、電信級も電話級も、その後に受けた2アマ・1アマも、人数的にはあまり変わらなかったように記憶している。合格者数は大いに変わっていたようだが。

試験の内容は、今の試験を受けたことがないので直接は知らないが、この道の雑誌をめくり、記号式になっているらしいとは知っている。我々が受けたときは、いわゆる記述式であった。無線工学も電波法規も各5問ずつあって、それを自分で思い出したり計算したり想像したり(?)して書いていった。学科のことはまたどこかで触れよう。

さていよいよ通信術の試験。受信が先だったように記憶しているが、先ほどの学科試験と同様の、多数受験者一斉受信。これも今もそれほど変わっていないだろう。

解答用紙を配られ、みな自分の鉛筆のチェックをする。書いている途中で折れたりすると、すぐ鉛筆を持ち換えられるように、置き場所も意識する。


はじめに、再生音のチェック。後ろの方聞こえますか?などといったやりとりが、あったかもしれない。あまりに普通のことなので具体的な記憶には残っていない。記憶に残るのは印象が強い事柄だけである。さぁ本番の電信音が聞こえ始めた。「・・・・ ・−・  ・・・・ ・−・  −・・・− 、、、」という、おなじみの音、文字列サウンド。再生機器はオープンテープデッキだったと思う。カセットテープがまだ世の中に出ていなかったころだと思う。

ちょっと部屋の残響が加わり、いつも自分で練習している感じではなかったが、十分に聞き取れた。電信は手打ちであった。縦振りの手打ち。今時の受信試験用のテープ(?)は、エレキーかパソコンででも作っているのだろうか、それともやはり縦振り手打ちだろうか。最近の受験者にお教え願いたい。アマのクラスを自分で受験することはないが。

その時は、手打ちとはいえ正確で、しかしエレキーのような正確さというのではなくなにか人間味あふれる聞きやすい符号であった。いかにも電信術の先生がお手本を示す、といった雰囲気が感じられた。その時の電信級の後、2アマと1アマ、2回受験しているが、いずれも同じような印象を持った。

さて肝心の、書き取り結果は・・・・合格したからいいが、はっきり言って何か意味のある文章を書き取ったようには思えなかった。脱字や単語間切れ間不明瞭などがあったかもしれない。なんか長い単語だなぁ、という記憶がある。・・・単語の切れ目が欠落していた証拠であろう。いやはや。

送信が終わり、ちょっとの間、書き上げた自分の答案を見直す。誤字脱字の訂正があれば短時間なら見直しを掛けて書き込める。ただ、”t"の横棒を書き加えるとか”i"のちょんを足すとか、そういった程度しかできなかったはずだ。私の場合は・・・見直そうにもその余地がない。書いた単語の綴りが合ってるかどうかなんて、なにしろ長ったらしい単語のように見えたということは、その綴りが正解かどうかも分からない。

なにはともあれ後の祭りである。その時の受験で受かったからいいが。



次は送信の試験。

受験番号順に別室に呼ばれ、数人ずつ入る。

試験官が何人か、学校の机を挟んで受験者と1:1で向かい合う。

自分の番になったらまず、電鍵を調整する。間隔、押し圧、ガタの有無などを点検、調整する。私の前の人の調整は、かなり強めの押し圧であった。私のほうが弱めが好みだったということか。いずれにしても打てない電鍵では試験にならないので、打てるように合わせこむ。目の前にいるのは自分の電鍵操作を試験する試験官である。大先輩である。緊張した。なにか手違いがあって減点でもされるだろうか、とか。

幸い、試験官の次の一言で心配解消。試験官は、調整が終わった私に合わせた電鍵を取り上げて、紙テープ記録紙をスタートさせ、やおら何か打ち出した。そうして一言、「いま何を打ったか分かりますか?」と。

その時、私の技能は、ラバースタンプQSO程度ならなんとかこなせる程度にはJA7YAFで鍛えられていた。受験対策と共に、実践用として模擬QSOもやったりしていたからだ。和文も覚え始めていた。欧文はぎりぎりなら1アマ合格程度にはなっていただろう。実際に受けるには余力がなくてめためただったろうが。・・・まぁ、その証拠というほどではないが、後日談として、ライセンスを取得した直後の11月下旬のWWCWには既にいっぱしのOPとして実戦に参戦している。YAFの諸先輩にしたら危なっかしくて見ていられなかったかも知れないが。


ともあれ、試験官が何を打ったか分かった。「はい、受験番号と私の名前ですね」。名前は和文で打っていた。自分の名前程度なら書き取らなくても充分分かる。


すると試験官は(そうかそうかわかってくれたか、と)ニコニコうれしそうに、「はい、では送信を始めて下さい・・・」。

怖いオジサンと思っていたのが、優しそうに見えるおじさんに変わった。なにしろこちらは純情な高校一年生。いまなら多少のことでは全く動じないが(いちいち動じてたら仕事にならん)、当時は、というか受験という緊張した場面では、ちょっとした外乱で、試験のできばえが左右される。ともあれその時のちょっとした会話が緊張をほぐし、送信試験を自然な気持ちで開始することが出来た。

「・・・・ ・−・ ・・・・ ・−・ −・・・−  」と心も腕も軽快に打ち出した。




合格通知が来るまでに2週間ぐらいだったか。電話級も一緒に受けたのだが、合格通知は電信級の方が先に来た。ええい、どうか電話級の方は落ちてくれますように!!と本気で考えた程度に、既に電信に浸っていた。残念ながら(?)電話級の方も合格通知が来たので、「やむを得ず」両方とも手続きをした。この時の気持ちの動きは本当である。今のこの私の状況(CWに浸り続けている)があるのも、そのころから継続しているだけである。



ちなみに、別編で他のクラス受験の記憶を書くが、その時のツナギとして付け加えると、この時、電信級・電話級を一緒に受験したJA7YAFの仲間は全員合格した。2アマを受けたのも合格した。まだ1アマはいなかった。